トップ › あさchyoの虫小話 › 史書「吾妻鏡」と昆虫

ページタイトル

史書「吾妻鏡」と昆虫

2010.3.4 更新

空白
 「黄蝶飛行自由比浦至干鶴岡宮并右大将軍家法花堂群亘云々」これは、鎌倉幕府が編纂した史書「吾妻鏡」の宝冶2年(1248年)9月7日の項に記載されているもので「黄色い蝶が由比ヶ浜から鶴岡八幡宮や法花堂の方向に群れ飛んできた」という記録である。12日後の同年9月19日には「幅三許段」余り(幅3m、長さ33m)の黄蝶の群れが「三浦三崎の方より名越のあたりに出てくる」と記されている。

 古来より蝶を死者の霊と見立てる俗信があった。この宝治2年の黄蝶の舞は鎌倉の人々の胸中に、宝治合戦で命を落とした三浦氏一党の記憶を呼び起こすことになったと思われる。つまり「三浦三崎」は三浦氏の遺地であり、「故右大将軍の法花堂」は三浦勢が最後に立て篭もった場所であったからである。

この黄蝶の飛行は5回記載されており、天地異変や戦乱の前ぶれとしてさわがれた。すなわち文治2年(1186)5月1日は、黄蝶が「殊に鶴岡宮に遍満している」ので「怪異」としてとらえられ、臨時に神楽が催されている。建保元年(1213)8月22日には「鶴岳上宮の宝殿に、黄蝶大小群集す、人之を怪しむ」とあり、この「鶴岡の奇異の事」について「兵革の兆したるの由」に黄蝶が群飛したのだと云う者がいるので8月28日には占いがおこなわれたと記されている。宝治元年(1247年)にも黄蝶が鎌倉中に充満し戦乱の兆しとして恐れられた。

 小西正泰博士によると、この黄蝶はモンキチョウかキチョウだろう思われ、この渡りの記録はイギリスのウィリアムズ博士の著書「昆虫の移動」(1958年)の中で、1100年頃のドイツのオオモンシロチョウに次いで、世界で2番目に古い蝶の移動の記録として紹介されているという。

 羽蟻の出現も建暦2年(1211)と嘉禎2年(1236)の2回記録され、人々を怪しませている。すなわち建暦2年は「後剋、鶴岳上宮の宝前に羽蟻飛散す、幾千万なるかを知らず」とある。嘉禎2年には「後剋、鶴岳若宮に羽蟻群集す」、「子剋、地震」とあり、羽蟻群飛後の夜9時地震が起き、翌日には羽蟻出現の御占いが行われたという。当時の人が羽を備えたアリとシロアリを識別できたかはわからないが、材木などに巣食うシロアリのことは知っていたものと思われる。羽蟻の出現の前後の記事には、建物の新造と関わりがある事が見られ、羽蟻と建物の新築を象徴的にとらえているものと見られる。

 改めて「吾妻鏡」に見られる動物を見ると、馬・牛・犬の他に狐・猿・鹿などの獣、鷺・鳩・鳶・鷹などの鳥、鮭・亀・鯨などの海の生き物など多彩であるが、昆虫は蜂・羽蟻・黄蝶だけで少ない。

参考文献「吾妻鏡辞典(佐藤和彦、谷口榮)」東京出版社

キチョウ

鶴岡八幡宮 (2010年2月14日撮影)                              3月10日に倒れた大イチョウが写っています。

法華堂(法花堂)跡

空白
back
ページ上に戻る